駆け出しのころ、先輩の番組制作者からいわれたのが「ドキュメンタリーとは事実の再構築だ」という言葉です。
ドキュメンタリーとは今起きていることを撮影して伝えるものだとばかり思いこんでいた私にとって、事実の再構成という言葉は衝撃でした。
「つくり直す」ということは「やらせ」ではないかと感じたのです。
” やらせ ”のルーツ「 極北の怪異 」
「事実の再構成」とは、撮ってしまったものを使って後付けでストーリーを作り上げること。
誰もがそう受けとります。「やらせのどこが悪い」と製作者の開き直りともとれる理屈です。
意味の撮り方次第で猛毒にも薬にもなる「事実の再構成」。
現役の制作者時代もその解釈を巡って悩みました。
悩んでも仕方がないので思考停止になったこともあります。
その源は映像草創期まで遡る課題であり誰もが皆悩み、思考停止していたことがわかって少しホッとしました。
ドキュメンタリーは、作り手が考える真実を紡ぐために構築されたものであり、事実の断片映像を駆使した一種のフィクションとも言える。
このことは映像を学問として学ぶ人たちにとっても最大の関心事といえるようで、ネットを探しただけでも様々な議論が続けられてきたことがわかります。
玉川大学の山口榮一氏 は 映画評論家の佐藤忠男は「視聴覚教育の問題」という論文を引用しながら、「記録映画には嘘が隠されていることがある」と指摘します。
この嘘にはいくつかあって、ひとつは「最初からだますつもりでつく嘘」、もうひとつは「間違いを間違いと知らずに結果としてつく嘘」、そして、最後に事実をさらに事実らしくみせるために使う「やらせ」という嘘です。
映像は事実を記録するとともにウソをつきます – Film Goes with Net
「極北の怪異」と”やらせ”
事実をさらに事実らしく見える「やらせ」をわかりやすく示したのが「極北の怪異」という映像作品です。
「ドキュメンタリー映画の父」と呼ばれるロバート・フラハティが1922年に手がけた、記録映画の原点とも言える一作。白い雪と氷に閉ざされたカナダ北部の極地に暮らす、主人公ナヌークを長とするイヌイットの一家が、厳しい自然と闘いながら、たくましく生きる姿を映し出した。日本では1924年に「極北の怪異」のタイトルで公開された。
北極圏で暮らす人々の暮らしを描いたこの作品では、屋内の生活を撮影するため、屋根のないオープンセットをつくって撮影したといわれます。
今なら、そんな方法でロケをするのはたぶん不可能です。
ロケをしたとしてもその事実をありのままにネタバレするか、公表しないならしないで「事実とは言っていません」と押し切るかしかないのです。
古い映像ですが、見れば見るほど製作者たちの自信に満ちた振る舞いが、同じ仕事をしている私たちの心の中に突き刺さってきます。
まとめ
「再構築ではなく、今起きていることだけで勝負することはできないか」
一度起きてしまった事実はその瞬間過去のじじつになります。
事前に予知して撮影することはできません。
起きてしまったことを伝えるためには再現することしかなく、そこにはうしろめたさがつきまといます。
制作者たちが心の隅に抱え持つ葛藤は永遠の課題であることを古い映像作品は示し続けています。
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こんにちは、フルタニです。放送局で番組作りをしてました。 極北の怪異 を書きます。